東欧諸国1985

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ワルシャワからボヘミア急行でプラハへ(1985年8月14−16日)

プラハの春、尖塔の街、ボヘミアングラス、アルフォンスミーシャの故郷、ブルダバ川などプラハを連想させることは当時もよく耳に入っていたし、アントニン・レーモンドというチェコ出身の建築家がFL. ライトの助手として来日しその後40年にわたって日本で活躍していた経緯もあった。

そんなチェコとプラハを見たいと思い、東欧諸国駆け足見聞旅行(予算の関係で駆け足(当時東欧諸国では強制両替額が定められていた))の予定に入れた。ソ連のように事前にプランを固定するのではない分、予定が組みやすかった。トーマスクックの時刻表と長時間にらめっこした結果、ワルシャワから入ることにした。

早朝、ボヘミアン急行でプラハ着

ワルシャワからボヘミアンエクスプレスという夜行急行列車に乗り1985年8月14日早朝、念願のプラハへ着いた。ワルシャワでの切符購入が手間取ったのでいささか共産主義国での旅行に疲れを少し感じていたが、この列車につけられたボヘミアンエクスプレスという名前を見て、気分的に盛り上がっていた。  寝台列車は、ワルシャワ中央駅で朝から昼過ぎまでかかって買った切符以上のものがあった。1等寝台個室、2段ベッドが一つありトイレと洗面が付き、私1人でであった。まあ、外国人はこれしか買えなかったのだけど、15米国ドルの料金はホテルよりも安上がりで貧乏旅行者にとっては好都合だった。そして、思いがけない贅沢を味わった。 ワルシャワ中央駅を夕方出発し、夏の田園風景を車窓から眺めながめた。上半身裸の農夫が夕方の日差しを浴びながら、干草を馬車に積んでいる光景は非常にのんびりとしいた。

プラハ1985年地図
プラハガイドマップ(チェドック) エンターテイメントガイド(1985) ホテル、レストランなど(1985)

強制両替: 当時、東欧諸国では旅行者は一日当たりの最低両替額(消費額)が定められていた。これは、外貨獲得の一環であり、一方的に設定された公定レートと称する実勢レートよりもかなり高い交換レートが適用され、はっきり覚えていないが一日当たり15-20USD程度だっただろうか、現地通貨へ両替しなければならなかった。

この確認方法は、出国時に両替証書を税関で提示するシステムであった。必ずしも毎回チェックされたわけではないが時として両替証書の提出を要請されると聞いていた。実際には一度も証書の提出を出国時に要請されなかったが制度がそうなっている以上遵守しておかなければいざという時にはなにかあるだろうという悩ましい制度だった。

聞いた話だが、一日当たりの両替金額に満たない場合、出国時に税関で不足分の両替をしなければならないようだ。しかし、出国時では最終国以外使い道はなく、価値もないので単なる帳尻あわせに過ぎず、持ち出しも制限されていることから放棄せざるを得なく、結果として、係官の懐に入るのではとのことだった。

プラハでの宿探し−Hotel Opera by Cedok

ガイドブックにチェドックで宿を紹介している旨説明があったのでそれに従った。地図を見たらさほど遠くないようだったので、駅からそのまま荷物を担いで歩いてチェドックへ行った。既に何人もの旅行者がそこにいた。  プライベートルームというのが安宿の代名詞であったが、場所が旧市街から遠く泊まったことのない不安さもあり、粘り強く聞いているうちに中心街(旧市街)へ徒歩圏の安宿がでてきたので斡旋してもらった。目印はパウダータワー(火薬塔)、そこからトラムのある路を行き、AXA Hotel(現在も存在する)の前あたりを左に曲がった場所だった。  当時のメモと地図から推察するとHotel Opera(現在も存在する。)かその手前のHotel Merkurだろう。


プラハ旧市街の街角

プラハ1985年

プラハ1985年、静かな裏通り

服装がとっても丸共 Skodaだよ!

美しきプラハ中央駅

プラハ駅は近代的な部分と歴史的な芸術作品のパートが混在している。地下鉄が駅の地階にあり、アクセスが非常によかった。当時地下鉄は2路線運営されていた。

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Old Part of Praha Halavni Nadrazi Praha Halavni Nadrazi

黄昏時のカレル橋

黄昏時、カレル橋のたもとで陽が暮れていくのを眺めた。プラハ城の尖塔ががシルエットとなっていく時間の流れがとてもゆったりと感じられた。

こんなすばらしい街がカレル橋からの帰路、旧市街を歩いていたら白いワンピースを着た美人の女性が話しかけてきた。これまで何度か声をかけられた闇両替ではなく、何だろうかと耳を傾けると手紙を西側で投函してほしいとのことだった。


プラハ城へ

翌日はプラハ城を目指した。ホテルでコンチネンタルブレックファストを詰め込んでプラハ城へ向かった。黒いパンと紅茶、それにハム、バターとジャムだった。朝はとてもすがすがしく気持ちがよかった。昨日探索したカレル橋への道のりを辿るように戻って行き、橋を渡り、ガイドブックの地図を見ながら適当に丘の上を目指した。途中日本人女性2人の旅行者と一緒になりプラハ城まで同行した。

以前カフカの作品を読んだことがあり、カフカが執筆活動をしていた住居を訪ねた。それはプラハ城の横にある”黄金の小路”という路地にあり小さな家が建ち並んでいる一角だった。壁にカフカのレリーフを見つけ写真を撮ったが建物は足場が組まれ工事中であった。

城への階段 カフカ像

Hotel Europa前のレストランとルーマニア人

 多分同じHotel Operaに泊まっていた人たちだと思う。ルーマニア人の男女、30代後半の印象だった、玄関を出たところで彼等に会い、夕食を食べに行こうと誘われた。何度かプラハを訪れたことがあるようなことをいっていた。彼等に誘われるままHotel  Europaの前の2階にあったレストランなのかカフェなのかわからない、古めかしい(共産圏ではそうではなかったのではないか)店へいった。とても陽気な人たちで一緒にビールを飲み、誘われるままに生バンド演奏でダンスをした。

当時、西側と東側では服装が全く違っていた。彼等はスポーツウエアのままだった。私は私で短パンかジーンズ、そして、ポロシャツのラフな格好だった。 陽気な人たちで私の東欧観、いやルーマニア観だろうか、変えるような人たちだった。情報が無の状態から少し加算されたようだ。この時、ルーマニアへ行く事は断念しており、今後インセンティブとしたようだ。

ビザ取得と強制両替

左は査証と出入国スタンプの写し。1985年6月13日に東京広尾にあるチェコスロバキア大使館で取得し同年8月14日に入国、8月17日に出国している。大使館へは申請、受け取りと2回足を運んだ。そのときブラスチラバへ行くという学生がいた。ゼミの関係といっていたような記憶だがそのころ私はその都市の名前以外には何も知らなかった。この出入国スタンプからもわかるようにプラハには僅か3泊4日であったようだ。

強制両替というのがなければもっと長居しただろう。強制両替の金額はこのときの私の旅行予算を超えていたからだ。こんな美しく魅力的な街はそう出会えるものではない。


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