東欧諸国1985

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東ベルリンからワルシャワとクラコフへ(1985年8月10−13日)

Warsaw | Krakow

西ベルリンで準備していた計画を実行に移した。1985年8月9日、西ベルリン動物園(Zoo)駅から21:01発の夜行列車でワルシャワへ旅立った。この計画では、西ベルリンから東ドイツを通過し、ワルシャワ、そして、クラコフ、ワルシャワに戻ってチェコスロバキアのプラハへ、その後、西ドイツのニュルンベルグへ出て、ウィーンを経由してブダペストを往復するというルートに落ちついた。

そして、ポーランドのハイライトはワルシャワ旧市街とアウシュビッツ強制収用所であった。旧市街は第二次大戦中、空爆によりほとんど全壊したが、戦後、復元された街だ。アウシュビッツはポーランドの古都クラコフに近い。ワルシャワ-クラコフ間は鉄道で移動することにした。

早朝、ワルシャワ着、その日の宿探しから

西ベルリン、Zoo駅(動物園駅)からワルシャワ行きの列車、きっとこの列車はもっと東、モスクワあたりが最終目的地ではなかっただろうか、でワルシャワ中央駅へ早朝着いた。Zoo駅の窓口でワルシャワ行き列車の場所を聞いたとき、職員の態度がかなりぶっきら棒だった。後からわかったが、西ベルリンのZoo駅はどうやら東ドイツの運営だということだった、これで納得。

8月10日、ワルシャワ到着後、先ず、したことといえばその日の宿探し、最終的には国営旅行社のオルビス(ORBIS、現在も存在する)へ行き安ホテルを紹介してもらった。その前に学生寮に泊まれるという情報がありバスを乗り継いでいってみたが、部屋(ベッド)がないとのこと。それでオルビスにやっかいになった。

途中道に迷い女性に聞いたら親切にも連れて行ってくれた。 ホテルは駅から遠く、当時のレートで3,500円程度だったと記憶している。貧乏旅行者にとっては結構な出費だった。これは強制両替(一日滞在あたり15USD、学生は7ドル)があったので大枚をはたいたのだ。荷物をホテルに入れ、それからワルシャワ探索へ出かけた。目指すはワルシャワ旧市街、地図を見るとさほど遠くないので歩いた。 とにかく天気がよかったのでどんどん歩いて旧市街まで辿り着いた。途中、オレンジ色のカーテンウォールのインターコンチネンタル・ビクトリアホテル(当時、現在はSofitel)の横を歩いたことを憶えている。割合密度の低い都市でかなり歩いた記憶だ。

ワルシャワ行き夜行列車、自家製ワインとウォトカ

西ベルリンの動物園駅から乗った列車のコンパートメント2等は8人掛けだった。西側は6人掛けだったのでやや狭く感じたが人が多いと何かと賑やかであった。出発より早めに駅へ行ったので私が乗り込んだときにはまだガラガラだったのであるコンパートメントの窓側の席に座った。出発時間近くなってみると8人掛けシートが全て埋まっていた。

出発してしばらくすると隣に座ったポーランド人とフランス人のカップルが自家製ワインを取り出し一杯どうかというので、あまり飲めないが断る理由もなく夜行だしということでお付き合いした。話を聞いてみるとフランスで働いていてポーランドへ戻るところだという、このワインはフランスの農場の自家製ワイン、ボトルに詰めただけで、もちろんラベルなどない。これが絶品の赤、この味は忘れられない。

ワインが直ぐに空き、次に出てきたのがウォトカ、グラスも出てきた。そして、オレンジジュース。彼によるとウォトカをグイと飲んで、その後にオレンジジュースを飲むのだという。こんなことをやっているうちに酒に弱い私は寝入ってしまったようだ。気が付いたらパスポートコントロール、次に気が付いたらワルシャワだった。

写真はワルシャワ旧市街に広場。


ワルシャワ旧市街

旧市街の広場、ここは第二次大戦の爆撃で破壊されたので、戦後図面を元に全く同じように復元された。キューリー夫人の生家はこの広場の裏手にある。ここの広場でポーランド人を見ている限り非常に平和に感じたが現実はそうではなかったというのが後からいろいろな書物からわかった。あまり情報を持ち合わせていなかったのでひたすら歩き回ることに専念した。この広場で昨晩のカップルと再開した。宿はプライベイトルームで10ドルだという、それから、ここではジーンズが安いといってリーバイスを買っていた。

写真はワルシャワ旧市街の広場、壁面に時計がある。


城壁の前でアクセサリーを売る女性

旧市街を歩き回っていたら城壁に出くわし、その入り口で一人の女性がアクセサリーを売っているのに気が付いた。何度かこの前を往復したがずーとここでそうしている様子。写真を撮っても良いかと訪ねてもあまり大きなリアクションはなく黙って首を縦に振るだけだった。何を考えてその時間を過ごしていたのだろうか。アクセサリーを売ろうと思っているのか、それとも、趣味で自前の作品を並べているのか、時の流れがゆっくりと感じられた。

 


苦労したプラハへの鉄道切符購入

 ワルシャワからプラハ行き「ボヘミアン・エクスプレス」の鉄道切符をワルシャワ中央駅で購入し、共産主義の現実に直面した。西ベルリンではワルシャワまでしか鉄道切符を買わなかった。よって、次の旅程の切符を購入しなければならなかった。軽い気持ちでワルシャワへ着いてからその先を考え切符を買えばよいと思っていた。 そして、ここ、ワルシャワで共産主義の現実に直面する。これは長蛇の列に並ぶということ。なんと切符一枚買うのに半日を費やした。言葉の問題もあり、最初に並んだ列は国内線用、本当にここなのか心配であったので同じ列に並んでいる人に聞いてみるとここだという。1時間を経過しても順番は一向に前へ進まない。2時間近く待ったのだろうかやっと私の番になりプラハとクラコフを往復告げると何か言っている。ポーランド語とロシア語のようだが私には理解できない。後ろの人が英語で通訳してくれた。

 どうもここの窓口ではないようだ。それに外国人は国際列車の支払いはポーランド通貨ズロチではできないらしい。それでもう一度違う窓口の列に並び直して順番を待つ。今度は大丈夫そうだ。そして、国際線用の列に並びなおして、私の順番が廻ってきてホッとしたと思ったら、支払いの方法はとても面倒だった。

 先ず窓口で区間を申請して料金を見積もってもらう。その次に、その料金に見合うUSドルを地下の両替所へ行き換金し、その換金証書とズローチを持って元の窓口へ行く、そこでやっと切符を受け取れるシステムだった。 列に並んでいた親切なポーランドの人のお世話になりながら、半日を費やして最終的には目的を果たせた。

 これは外国人に限ったことではなくポーランド人も切符購入には相当の時間を費やしていた。そして、ワルシャワからプラハ行き夜行特急列車の切符を手にした。今思えば闇両替等のアングラマネーでの購入を制限していたのだろう。

ボヘミアンエクスプレス−ワルシャワ発プラハ行き

特急列車の名称はボヘミアン・エクスプレス、一苦労してワルシャワ発プラハ行き「ボヘミアン・エクスプレス」の鉄道切符をワルシャワ中央駅で購入し、共産主義の現実を体験した後、手に入れた切符を見てにやりと微笑んだ。

「1等寝台」で$15、貧乏旅行なので1等寝台なんて凄く贅沢だったが、これも外国人への規制でしょう、これしか乗せてくれないのだと納得して、束の間の贅沢を楽しことにした。

ワルシャワ中央駅での食事

 切符をやっとの思いで購入し、中央駅の2階にあるカフェテリア形式のレストランへ遅いランチを食べに行った。食糧事情は良くないと聞いていたが、全くそのとおりで選択肢が全くなく、目の前にあるスープとチキンのような食事を注文した。スープは細い骨がバラバラと入っているだけで何のスープかもわからなかった。チキンも小さく、パンも美味しくはなかったがお腹に詰め込んだ。この辺の国ではもっとも食事の質が低い印象だった。

クラコフへ

ポーランドの次の目的地、クラコフとアウシュビッツ、そのため、鉄道で移動した。鉄道切符は前述のワルシャワ中央駅でプラハ行きと一緒に購入した。こちらは国内なので2等、時刻表を何度も見直したがワルシャワからクラコフ行きは夜行しかない、復路は日中だった。

Kodachrome 64

ポーランドで使ったフィルムはKodachrome 64、写真はフィルムをスキャンしたもの、未だに色あせなし、当時のカラーを保っている。

査証

目黒区三田にある、現在も、ポーランド大使館で取得したビザ。

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