東欧諸国1985

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ワルシャワとクラコフ Warsaw and Krakow (1985年8月10−13日)

Warsaw | Krakow

東西ベルリンで準備していた計画を実行、ワルシャワへ夜行列車で旅立った。この計画では、西ベルリンから東ドイツを通過し、ワルシャワ、そして、クラコフ、ワルシャワに戻ってチェコスロバキアのプラハへ、その後、西ドイツへ出て、ウィーンを経由して、ブダペストを往復するというルートに落ちついた。

夜行列車で早朝クラコフ着、人力水洗便所に世話になる

karakow1985年8月のある日、ワルシャワから夜行列車で早朝クラコフに着いた。距離が中途半端なので午前4時か5時くらいの薄明るい時間帯の到着であった。前日は、プラハ行きの切符を買うのに半日以上ワルシャワ中央駅で費やし、やっとこの先の旅程の目途がたち、ポーランド滞在の目的のひとつであるクラコフヘ足を伸ばすことができた。

よく眠れなかったことも手伝って朝からお腹の具合が悪く駅のトイレに駆け込み、オバちゃんから紙をもらって鍵が掛からないトイレへはいる。掃除がきちっとされていてそれほど悪くはないと思いながら、ことが済んで水を流そうと試みたがどうも壊れているらしい。オバちゃんに身振り手振りで説明したら、このへんは要領を得ていてバケツに水を汲んで流してくれた。どうも、ここのトイレは全て手動水洗のようだった。

それから荷物を駅の荷物預かりへ持っていく。窓口の初老の人がどこから来たかとしきりに尋ねるので、日本からだと答えると何かうれしそうに笑顔を返してくれた。どうも日露戦争でロシアを破ったことへの賛美らしい。


バスでオシビエンチウム(アウシュビッツ)強制収容所跡地へ

Krakow貴重品をディパック入れ替え、それから駅前から出ているオシビエンチウム行きバス時間を確認、30分ほど待ち時間があり、辺りを散策し、その後ベンチで朝の様子を見ながら待つことにした。

出発の時間になりイカルス製の中型バスに乗り込む。車窓は走り出してすぐに農村風景に変わった。道路沿いに植えられたマロニエの緑がとても初々しく感じ、辻のマリア像がカトリックの国を想像させた。夜行列車でついたせいもあり、バスの心地よい揺れも手伝ってウトウトとしながらの車窓だった。

アウシュビッツに着いたあと帰りのバスの時間を確認して強制収容所跡へ入った。ビルケナウという収容所跡が直ぐ近くにあるがここへは時間の関係で足を伸ばさなかった。カメラを向けるのがはばかられるような展示ばかりで圧倒された。

(早朝のバス停にて)


 

アウシュビッツ強制収容所跡

とビルケナウ収容所跡、なかなかこのトピックは書けない。

今では世界遺産に登録されている。

復路のバス時間を確認して今は博物館となっているアウシュビッツ強制収容所跡を見学した。滞在客は外国人と思しき観光客がほんの数人だった。

クラコフ駅前のパン売り

オシビエンチウム(アウシュビッツ)強制収容所跡から午後のバスでクラコフに戻った。

朝、駅に預けた荷物を受け取り、それから宿を探した。駅のインフォメーションで紹介された駅前の安ホテル(下記)に泊まることし、荷物を部屋に入れてからクラコフの旧市街へ足を運んだ。

駅前を通りかかったときに人が集まっているので覗いてみると”8の字”のような形をしたパンを売っていた。つられて私もひとつ買ってみた。岩塩がまぶしてありそのままでは塩が強すぎて食べられなかったので塩の結晶を落として食べた。

クラコフの宿

1985年に泊まったクラコフのホテル:
Wawel-tourist
Hotel Pod Zlota Kotwica
ul.Szpitalna 30
31-154 Krakow
tel. 22-10-44
(ホテルの封筒より)

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泊まったホテル 旧市街へ路

クラコフ旧市街と聖マリア教会

クラコフ旧市街については、ガイドブックに「元ポーランド王国の首都として繁栄し、コペルニクスが学んだポーランド最古の大学がある歴史文化の都市」や「13世紀にタタールが攻め込んだとき、その知らせを聖マリア教会の鐘楼からラッパで知らせていたラッパ吹きがタタールの矢に射られた、その経緯から、この教会のラッパ演奏は途中で途絶える」などが説明されていた。町の佇まいは、ソ連とも西ヨーロッパとも異なる香りが漂っていた。

ホテルで旧市街までの行き方を聞いて歩いた、迷うことなく城壁が見え、門をくぐり人の流れに沿って歩いていくと旧市街の中央広場だった。途中、闇両替の誘いが数回あったことから、東側諸国に滞在していることを確認した。

門をくぐると、壁沿いに絵が並べられ売られていた。良くある観光用の絵画だった。更に進むと中央広場の端となり、正面左に尖塔を持つ聖マリア教会と右奥には織物取引所の建物があった。尖塔は2塔あり、それぞれのデザインが異なり建築年が異なるのだろう、そのラッパ吹きはそのどちらかでタタールの矢に射られたのかとくだらない思いを描きながらこの広場を散策した。

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闇両替の誘いと東ベルリンであった日本人旅行者

当時クラコフを訪れる外国人は多くはなかった。特にアジア人では日本人だけだったのだろう、珍しがられ視線をよく感じた。 市街を歩いていると男が”チェンジダラー、チェンジダラー”といってついてくる。レートは?1ドルxxxズローチ、公定レートの5倍じゃないかと驚くが、No Thnak youといって別れる。が、何度も闇両替商に出会い、同じことを質問すると大体同じレートの返事が返ってくる。彼らの風貌は全くその辺を歩いている人と変わらないが、ポケットにやたらズローチ札を持っていた。

何人目かの誘いのとき、換えてみたい衝動に駆られて実行する。 男は周囲の様子を確認し建物の陰に私を誘い、ものすごい早さでズローチ札を数え、私のドルと同時に換えてくれた。そして何事もなかったようにすーっと人混みに消えた。

東ベルリンで会った日本人のカップルにワルシャワとここクラコフでも会った。私と同じような行程で旅行していたようだ。向こうもちょっと驚いていたが、東ベルリン−ワルシャワ−クラコフ−ワルシャワ−プラハというコースが同じだったようだ。

クラコフからワルシャワへ

1985年8月13日、11時5分発のワルシャワ行きローカル列車で乗り、ワルシャワには17時30分に着いた。そして、二日前に購入したプラハ行き「ボヘミア急行」18時30分発に乗車した。

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