ナホトカ航路シベリア鉄道の旅行準備

旅行準備で最も時間を要したのは旅程を確定することとビザを取得することだった。ソ連は全ての旅程予約が確定したうえでバウチャーが発行され(支払いも同時)、そのバウチャーを添付し査証が発給された。つまり、予約が確定しないとビザも発給されないシステムだった。ソ連と東欧のビザ取得、そして、ソ連国内の旅程の確定に概ね1ヶ月程度は費やしたと思う。残念ながらそれらのバウチャーやビザ(別紙、パスポートには押印されなかった。)は全て入国したとき、出国するときにインツーリストやイミグレーションで提出してしまったので残っていない。コピーをとっておかなかったことを悔やむ。

旅行代理店の選定とソ連国内の旅行手配

このような事情から初めてソ連を旅行する者が全て自前で手続きをするのは最初から無理とわかっていたので、ソ連を専門にしている旅行社を2−3あたって、その中で最も親切そうな日ソ旅行社(今はロシア旅行社となっている)という旅行代理店へ旅程の手配をお願いした。この旅行社、料金も一番安かった。

旅行計画と予約

日ソ旅行社へお願いするにあたって'こちらである程度プランを考えて持ち込み、予約を入れてもらった。当初、バルト3国へいく計画だったが、ホテルの予約が入らずその分をキエフへ振り替えた。値段的にはほとんど変わらなかったと思う。

余裕のある旅行ではなかったのでホテルは安いのにしてもらおうと思ったが外国人は選択肢がほとんどないので予約が入るホテルを旅行社にお任せした。モスクワではモスクワオリンピックのときに建設されたコスモスホテル、他の都市はインツーリストホテルだった。 ホテルのベッドに寝られるのはこの旅行の中では贅沢だった。後は列車の中という結構な強行軍だったからだ。

ビザの申請取得

ソ連の旅程予約が確認されバウチャーを添付して、狸穴のソ連大使館へビザの申請をした。ソ連以外の東欧諸国のビザについては、同時並行的に申請、ソ連国内の予約手続きが進行している間にチェコスロバキア(広尾)、ポーランド(目黒区三田)、ハンガリー(代官山)の3カ国を取得した。広尾、代官山、目黒区三田など申請及び受取とN君のバイクを借りて飛び回った。ソ連のビザは、バウチャーがあることで問題なく下り、再度狸穴へ受領のため足を運んだ。ビザはパスポートにスタンプを押されるのではなく、別紙で発行された。東欧諸国は通常どおり、パスポートにビザのスタンプが押された。(大使館の場所は当時)

ブルガリア、ルーマニアは時間切れで手続きをしなかった。ユーゴスラビアについては、日本人は当時からビザが免除されていたがそれすら知らず仕舞いだった。東ドイツは、列車の中でトランジットビザが取得できることを確認していた。

ユーラシア大陸横断片道切符

ソ連国内は、バウチャーが全てでこれを各地のインツーリストに見せ、予約と照合してホテルのバウチャーや航空券、鉄道チケットを受け取ることとなる。とにかく、初めての国、初めての共産主義国であり、緊張感があった。

こんな状況だったが駆けずり回って旅行の手配をし1985年6月29日に横浜港から出航できることになった。手元に残っていないがこれで、フィンランドまでの片道切符を手に入れた。後は、現地で対応するということになる。

青年用IDカード、ユースホステル会員カード等の取得

ヨーロッパでは20代までは多くの優遇がありその証としてYouth International Educational Excange Card、同様に学生であれば東側でも通用するInternational Student Identity Cardがあった。前者は 国際学生交流財団が発行し(はっきり記憶していないが日本ユースホステル協会が代行していたのだろうか、webで検索しても見当たらない。)、後者は大学生協で発行していた。当時はもう学生ではなかったが、西ベルリンで申請したら取得することができた。また、日本ユースホステル協会の会員になることにより、International Youth Hostel Federation Cardとして世界中のユースホステルで使えたので市ヶ谷まで出かけて発行してもらった。

ソ連以降の旅程

ソ連国内は完全に固定スケジュールであり逸脱することは許されていなかったので予定通り、7月15日にフィンランドへ出国する。その後は、ラハチの友人へ会いに行き頼まれたフジのオートマチックカメラを手渡しこと、ビザを取得しておいたポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーへ行くこと、後は完全にフリーにしておいた。鉄道を基本的に利用する予定だったが、Interrail Passがどこで入手できるかわからないからだった。(ユーレイルパスは割高だったので利用しない前提で予算を組んでいた。)ソ連とは違い、他の東側諸国は滞在期間が限られていたが、事前にスケジュールを決める必要はなかった。

ソ連国内の旅費

資料が残っていないので記憶だけだが21−2万円を日ソ旅行社へ支払ったと思う。仕様は以下の通り。

船舶:ナホトカ航路(横浜−ナホトカ片道)5等

鉄道:極東・シベリア鉄道及びキエフ片道、レニングラード片道、レニングラードからフィンランド国境まで、全て2等

航空:エコノミークラス(キエフ−モスクワ)片道

ホテル代:イルクーツク・インツーリスト1泊、モスクワ・コスモスホテル2泊、キエフ・インツーリスト1泊、レニングラード・インツーリスト1泊)

モスクワのコスモスホテルが約15000円くらいで、他は1万円程度だったと思う。

その他:イルクーツクでバイカル湖見学

鉄道駅−ホテル間、空港−ホテル間の送迎付き。

出発した時のルーブルの対USD為替レート(円換算 1ドル=248円)

  日付 レート ソース
対Roubleレートその1 06/29/1985 ¥248.40 あるweb
対Roubleレートその2 1985年6月 380Yen 私の記憶とメモ

1ルーブル=380円が当時の観光客用のレートではなかっただろうか。ソ連へ入国してからナホトカで両替したような記憶。シベリア鉄道での食事にルーブルを使った。1ルーブルの100分の1の通貨単位がカペイカ。モスクワの公共交通は、均一料金で5カペイカだった。

ソ連へ旅立った1980年代の出来事

1980年代は、いろんなことがあった。世界の構造を大きく変える大きな波のうねりの中にいたような時代だったす。ソ連とこのときの旅行に関係していた主要な出来事は次のようであった。

1980年 大平正芳首相が衆参同日選挙戦の中、急死。鈴木善幸首相就任。

1980年 モスクワオリンピックボイコット

1980年に開催されたモスクワオリンピックに対して、1979年12月におきたソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議する形で、米国カーター大統領がモスクワオリンピックボイコットを提唱、西側陣営もこれに同調した。日本は5月24日、JOC総会で不参加を決定。

1980年5月4日 ユーゴスラビア終身大統領ヨシップ・ブロズ・チトー、スロベニアのリュブリャナで病死

1980年9月22日 イラン・イラク戦争勃発

イランイラク戦争勃発。1988年まで続く。

1981年 米国、レーガン大統領就任

1982年 中曽根首相就任

1982年11月10日 ブレジネフ書記長死去
ブレジネフ・ソ連書記長死去(11.12,後任にアンドロポフ政治局員)

1983年9月1日 大韓航空機撃墜事件

民間航空機である大韓航空機KAL-007便が、ソビエト連邦の領空を侵犯したために撃墜された。撃墜されたのは、大韓航空のボーイング747でニューヨークからソウルに向かうKAL-007便であった。ソ連の領空を侵犯したあと、領空から出て30秒後に、サハリンの近海に墜落した。

1984年、米国、レーガン大統領再選
1984年2月9日 アンドロポフ書記長死去
アンドロポフ・ソ連書記長死去(2.13,後任にチェルネンコ政治局員)

1985年3月11日、チェルネンコ書記長死去、ゴルバチョフ書記長就任

チェルネンコ書記長死去(3月10日)によりゴルバチョフ政治局員、書記長就任。

1985年8月12日、日航123便、御巣鷹山へ墜落
羽田発大阪行き日航123便が御巣鷹山へ墜落、524名の命を奪う。 この事故は私の誕生日に起きたので忘れられない。

1985年9月22日、プラザ合意

行き過ぎたドル是正と米国の貿易赤字解消を目的にNYで開かれたG5で参加国の通貨をドルに対して10−15%切り上げる協調介入が合意された。出発した6月29日の為替レートが1ドル248円、会議前240円、会議終了、市場が開けて232円、10月1日には216円になっている。

1986年4月26日チェリノブイリ原発事故

ソ連邦ウクライナ共和国チェリノブイリ原子力発電所でメルトダウンが発生した。

1986年、米ソ首脳会談。アイスランドのレイキャビクでレーガン大統領とゴルバチョフ書記長が会談

1987年、国鉄が分割・民営化、JRグループが発足

1987年、竹下登内閣発足

1988年、イランイラク戦争停戦

1988年、青函トンネル、瀬戸大橋開通

1989年初頭、昭和天皇、病気のため崩御

1989年、横浜ベイブリッジ開通

1989年、ベルリンの壁崩壊

最近のシベリア鉄道、ロシアの旅行費用など