ソ連を後にして
一言で言えば緊張と好奇心の連続だった。横浜港を出航して、ナホトカからシベリア鉄道、途中イルクーツクで一泊、そして、モスクワへ。ウクライナのキエフ、レニングラード(サンクトペテルブルグ)へと旅程は進んだ。この旅行は、ヨーロッパの建築や町並みを視察することを目的にしていたが、ソ連国内は移動が制限されていたこともあり限られた都市を観て歩いた。それと、ユーラシア大陸の東から西までの距離を鉄道での移動で体感した。こんな旅行はその時でしか出来なかったと思う。とにかく、隣国ソ連がどんな国か見てみよと計画したが予想していた通りたいへん気に入った。
今思えば、若さがなせたことだと思う。
レニングラードからフィンランドへ
インツーリストに予約した旅程は、レニングラードまで(レニングラードからフィンランド国境まで)で予定通り出国しなければならなかった。最終日、1985年7月14日の夕方、レニングラードのフィンランド駅からいつものモスグリーンに塗られたソ連国鉄の寝台車でソ連を後にした。
早朝、フィンランドとの国境に差し掛かった。果てしなく森林が続く原野の中、列車はゆっくりゆっくり進んでいた。乗客がもう直ぐ国境を通過すると説明してくれた。窓際に立ち外をずっと眺めていたら、ソ連の国境ポストらしきものを通過、そして、フィンランド国境のポスト、乗客から庭に拍手が起こった。
予約してあった鉄道切符はソ連国境までだったので、国境からラハチまでは乗車賃23.9FMKを支払った。支払ったのは確かだが、どのように支払ったのか今は失念してしまっている。
西ドイツHanoverから西ベルリンを目指す
暫くフィンランドの友人宅に滞在した。ベルリンへのルートを調べていたら、明るい時間帯に西ベルリンへ着く列車はハノーファーからのアクセスが良さそうだということがわかった。ヘルシンキからシルヤライン(SILYA LINE)のフェリーでストックホルムへ、岩盤を掘りぬいた地下鉄と旧市街ガムラスタン、郊外の住宅地と墓苑を見学した後、夜行列車でコペンハーゲンへ向かった。さらに列車を乗り継いで、北ドイツのハンザ同盟都市、リュベック、リューネブルグ、ツェレを訪れ、それからハノーファーへ向かった。1985年8月6日にハノーファーへ到着した。
ストックホルムでInter Rail Passを購入
ストックホルム中央駅で、インターレイルパスの購入を試みた。試みたというのは、通常、ヨーロッパ在住者以外は購入の対象となっていなかったからだが、好運にもすんなりと窓口の女性が手続きを進めてくれた。窓口にVISAとMaster Cardのマークが出ていたので写真とクレジットカード(Maste Card)を差し出し、まったく問題なくで購入できた。料金は2ヶ月用で1230SKrだった。当時、日本でクレジットカードで乗車券を購入することはできなかったのでこの便利さがたまらなく好きになった。
西ベルリンで東ヨーロッパ旅行の準備
ハナーファーからは1985年8月7日、予定通り、10:15発13:45着の列車で東ドイツ国境を越え西ベルリンへ到着、国境越えはスムーズだった。東ドイツ領内はインターレイルパスが適用されないのでハノーファーで39DMのチケットを購入した。西ベルリンではYHに宿泊、情報収集を宿泊者から行う。数人の日本人が宿泊していたので彼らから先ず東ヨーロッパ諸国の旅行情報を聞いた。ここで、東ヨーロッパ諸国に通用する青年カード(26歳か28歳以下が対象で、安く列車のチケットが買えた。)を申請、受理。総合的に判断して先ずワルシャワ、クラコフ、プラハを周遊する旅程を立て、動物園駅へチケットを購入しに行った。全旅程を購入しようか迷ったが、東側でも購入できるだろうとワルシャワ片道切符にした。料金は2等で40DMだった。
西ベルリンから東ドイツへ
チェックポイントチャーリーから東ベルリンへ入った。一日ビザ5DM、強制両替25DMで容易に入国となった。東ドイツは東側第二国目となった。元ドイツ帝国の首都ベルリンだ。早速、ブランデンブルグ門へ足を向けた。前日、反対側のティア・ガルテンからブランデンブルグ門を見ていたのでなんとも不思議な感じ、ソ連兵が歩哨に立っていたと思う。宿泊していたYHの近くに旧日本大使館があった。歩いていたら日の丸が掲揚されているのでなんだろうと思って調べてからわかった。
動物園駅からポーランド・ワルシャワへ
1985年8月9日、動物園駅21:01発、ワルシャワ7:30着の列車に乗り込んだ。行き先を間違えないように各ワゴンの行き先を確認した。一部のワゴンはモスクワ行きの表示があった。動物園駅は駅員の対応が刺々しかったので、乗り合わせた人に聞いたら、あそこは東ドイツの職員だということで納得した。
2等のコンパーメントは西側とは異なり、8人掛けでやや窮屈だった。もちろん満席で私の前に座ったカップルはフランス人とポーランド人でこれから里帰りとのこと、走り出すとラベルのないワインを取り出し勧められた。元来アルコールの弱いが、このワインは美味しかった。ワインの後、ウォッカになり飲み方を教授されているちうちに眠ってしまったようだ。
ワルシャワからチェコスロバキアの首都プラハへ
1985年8月10にワルシャワに7:30ごろ到着。ガイドブックを片手にワルシャワでの宿探しとこれからの鉄道チケット購入に奔走した。
プラハまでの鉄道チケットを購入のため、窓口に並んだ。鉄道チケットを購入するのは並んで順番が来るのをじっと待たなければならなかった。最初に並んだ窓口が国際線でなかったので再度並びなおしたので約半日費やした。外国人は2等には乗れないのか、1等寝台車となった。それでも料金は15米ドル(料金は米ドル払い)と格安だった。
それから、宿探しのため駅の紹介所へ行った。プライベイトルームが10ドル程度だったが、ガイドブックに載っていた学生寮へ行ったが、結局、そこへは泊まらず、再度駅の紹介所へ戻って安ホテルを紹介してもらった。メモには2600Ztとある。3000円くらいではなかっただろうか。
ポーランドは、ワルシャワとクラコフへ足を延ばした。クラコフはアウシュビッツが目的だったが旧市街も楽しんだ。
1985年8月13日、クラコフからワルシャワに17:30に戻り、18:45発のボヘミア急行の一等寝台車でプラハへ向かった。列車が走り始めた頃はまだ明るく車窓の収穫風景を楽しんだ。クラコフで買ったユダヤ人のパン(岩塩を塗した8の字のような形状)とジュースを夕食にし、列車の度に満喫、プラハへ翌朝、9時ごろ到着した。
ウィーンからハンガリーのブダペストへ
プラハのあと、ニュルンベルグで次の策を練る。1985年8月19日にウィーンへ移動、翌20日、10:20発14:25着の列車でブダペストへ向かった。ハンガリーはポーランド、チェコスロバキアに続いて東欧諸国第3番目の国となった。